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5月, 2018の投稿を表示しています

配給制度って実際どうだったの??なんのため??

配給といえば戦争中に人々に食べ物などの生活必需品を配る制度。 と考えるかたが沢山いらっしゃいます。 というかその考え方、間違ってません!!! もっと言うと、 戦争を優先した上で、残りを国民に平等に!!という考え方がぴったり当てはまります。 平等に。が大切なポイントです。 兵隊さんは国のために働いてくださるのでそののこりを皆で分け合う。 分け合うときは平等にしようね! と考えていただければ大丈夫です。 さてその 配給制 度、実際に実行されたときはどんな状況だったのでしょうか。 ここでは第二次世界対戦中の日本の 配給制 度に限定してお話いたします。 配給って何??どうして起こったの??? 上記でも説明したとおり、第二次世界対戦中の日本において日本国民(その時点での非戦闘員と男性)にわけられる分の日用品を平等にわけあたえよう。という考えのもと実行された政策です。 なぜ配給を始めたのかというといってしまえば物不足です。 もともと物資や物の原材料の殆どを輸入にたよっていました。ですが、戦争がはじまってしまい輸入がうまくいかなくなり、ただでさえ少ない物資を国が統制し国力のすべてを戦争に注ぎ込んだのです。 なぜこんなに物資が少ないのに戦争に突き進んだのか。 それは 日露戦争 に勝ったからです。あのロシアに勝ったのです。これで列強の仲間入りを果たした日本ですが国力にはまだまだ大きな差がありました。 例えば、ある日学校で数学のテストがありました。 最高得点は100点満点です。普段授業をい真面目に受けていなかったのか知識の土台がないばかりに、100点満点またはそれに近い点数をとるため寝る間の惜しんで全力でやらなきゃいけない、やったにも関わらず60点しかとれなかったK君。授業をしっかり受けており知識の土台もしっかりしておりテレビを見て漫画を読んでほんの数分勉強しただけで100点とれちゃうH君。 列強はH君のようでした。知識の土台は資源におきかえてください。資源も実力もある列強は片手間で行うことができます。その証拠に第二次世界対戦中、アメリカはディズニーアニメーションとして数々のカラーアニメを作っていました。カラー作品白雪姫もその一つです。 一方日本はK君のようにもともとの

昔なつかしの酒屋さん!!どんなことしてたの??御用聞きって?

「チワー!!三河屋です!!」でお馴染みの三河屋さん。 サザエさんに出てくるあの三河やさんです。 サザエさんではじめてその存在を知ったという方も沢山いるのではないでしょうか。 というか今の時代なかなかあんな感じの人、いませんからね!! でも、昔はちゃんと存在したんですよ。 つまり彼はおとぎ話だとかファンタジーではないんです。 そんな三河屋さんについて少しだけ書いていこうとおもいます。 三河屋さんって何屋さん?? 三河屋さんってそもそも何の商売をしている方なのでしょうか。 答えは、酒屋さんです。 酒屋さんといっても居酒屋さんのような飲食店では無く八百屋さん、お肉屋さん、お花屋さんに並ぶ商店街のお店のひとつと捉えていただいても大丈夫です。 なぜならサザエさんのベースとなっている時代は昭和30年代。 今でこそ個人商店は珍しいものとなっていまいましたが当時はその殆どが個人商店でした。 なのでお花屋さんのように個人が営む専門店として成り立っていたのです。 酒屋さんの役割って??? 酒屋さんは基本個人経営の専門店。ということまではわかりましたが、実際はどんな仕事をしていたかお分かりですか?? 「ボーーっと店の前にたって人が来たら酒を売る。」 とおもわれがちですが違います。 サザエさんを見てもわかる通り、街に繰り出すのです。 そして町の人と親しくなる。 これが基本です。 なぜかって?? 御用聞き があるからです!! 御用聞きというのは各家庭に注文を聞きに行きその品をあとで配達する所謂デリバリーに近いものでした。 そして、この御用聞きや配達の時酒屋さんは基本勝手口を利用しました。 「勝手口から注文をきき、勝手口に届ける」というスタイルです。 サザエさんの三河やさんのサブちゃんも基本勝手口から磯野家を出入りしてますもんね! 届けるのはお酒だけではありません。 醤油に味噌、ソースも売っていました。 売り方は 計り売り です」。 計り売りというのはいまのようなボトルに入ったものを買うのではなく、空き瓶に本当にその家庭に必要な分だけを買うというやり方でした。 この方が節約になりますよね!!調味料がまだまだ

給食の歴史を探ってみよう!!カレーに脱脂粉乳!!

日本で学生生活を送ったみなさん一度は食べたことがあるはずのアレ。 そう、給食!!! 給食って美味しい学校、あまりうーんな学校とありますが、そもそも給食の歴史ってどんなだかお分かりですか?? ざっくりとしかわからないかたも多いかとおもいますのでさくっとお話ししますね!! 給食のはじまりは?? 給食のはじまりは山形県鶴岡市忠愛小学校において昼食として出したことが始まりです。 それが明治22年1889年です。貧しい家庭の子供が多くお弁当を学校に持ってこれない子が多くその子達にこの学校をつくったお坊さんが子供たちにお昼ご飯を振る舞ったそうです。 メニューはおにぎりと漬け物と焼き魚です。 すごく質素ですが当時の子供たちは大喜びしたそうです。 東京での給食のはじまりは大正6年1917年佐伯博士の研究による栄養食を東京都中央区銀座の泰明小学校で試みたことが始まりです。 その後昭和7年1932年不況による欠食児童を救うために学校給食臨時施設法が公布された。 戦時中は給食が出せる状況ではなく昭和19年1944年学童疎開実施により学校給食は一時的に中止されました。   だからといってみんながみんな完璧にお弁当を持ってこれるわけではありません。 飢えとの戦いです。 戦後の給食はどうなった?? まず先に言います。 復活しました。 今まで食べてきたので復活したのはわかりますよね?? ではいつ復活したのでしょうか。 戦争が終わったのが1945年、給食が復活したのは1946年です。 1946年昭和21年、GHQからの勧告を受け12月24日のクリスマスイブに千代田区の永田町小学校に給食物資の贈呈式があったことに合わせて給食が再開されました。 といっても給食を実施できる環境が整っているわけではないのでできる学校からやっていきました。 4年後のの1950年昭和25年には東京23区の560校で実施されました。 パン給食のスタートです。 こうして公立小中学校の給食制度がスタートしました。 その後米給食の開始、麺の登場などメニューの種類も豊富になりました。 脱脂粉乳を中心に給食の定番メニューは?? 給食の定番メニュー

ランドセルっていつ頃からあるの??どこが始めたの??セーラー服はどこからきたの??学校のあたりまえの由来を大調査!!!!

日本で学生生活を送った皆さんこんにちは!!! こんばんはおはようございます。 ランドセルにセーラー服。 見たこと、聞いたことありますか?? ランドセルなんて日本で小学生を経験すれば誰もが通る道です。(例外あり) セーラー服は来たことない女の子もたくさんいるのかな??? まぁ私もガッツリブレザーの人間でしたが。 学校にあるたくさんのあたりまえの由来を暴きたいと思います!!!!! ランド セルっていつからあるの?? ランドセルって誰でも背負ったことありますよね。例外あり。 ちなみにこの背負うって福岡では「からう」って言います。 まぁそんなことおいといて。 ランドセルっていつから有るのかご存じですか??? 戦後から????っておもいますよね。 実は戦前からあったんです。 しっかりと存在されてました。 日本のランドセルのルーツは、ヨーロッパで使われていた鞄です。 明治時代に学習院初等科に子供を通わせていたある父親はそのヨーロッパの鞄を見て似たような鞄を子供に背負わせて通わせていました。当時は今のような子供の通学用鞄なんて文化は無かったのです。 それを見た学習院初等科の先生が「子供用にちょうどいい」と考えた結果、 1885年明治18年に小学生用の鞄として導入したのが最初です。明治からあるんです!!バリバリの戦前ですよ!! ただ、ランドセルを背負えたのは学習院にかよう良家の子女だけで明治18年以降も庶民たちはまだまだ風呂敷に教科書を包んでい ランドセルの名前の由来は?? ランドセルって不思議な名前ですよね! 実は学習院ではランドセルを作るときに陸軍の背嚢(ハイノウ)という鞄を参考にしたんです。 なのでオランダ語で背嚢を意味する「ランドセル」という呼び名ができました。 ランドセルの今は?? ランドセルのサイズといえばA4ですか???B5  ですか?? 私はB5の人間だったんですけども、近年、教科書やプリントや書類などの巨大化によりランドセルのメジャーなサイズが B5からA4に変わっています。カルすぽというワードが出てきちゃうくらいですからね★ お子さまのランドセルを買いにいって「あれ?大人になったのに