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給食の歴史を探ってみよう!!カレーに脱脂粉乳!!


日本で学生生活を送ったみなさん一度は食べたことがあるはずのアレ。

そう、給食!!!
給食って美味しい学校、あまりうーんな学校とありますが、そもそも給食の歴史ってどんなだかお分かりですか??
ざっくりとしかわからないかたも多いかとおもいますのでさくっとお話ししますね!!



給食のはじまりは??

給食のはじまりは山形県鶴岡市忠愛小学校において昼食として出したことが始まりです。
それが明治22年1889年です。貧しい家庭の子供が多くお弁当を学校に持ってこれない子が多くその子達にこの学校をつくったお坊さんが子供たちにお昼ご飯を振る舞ったそうです。
メニューはおにぎりと漬け物と焼き魚です。
すごく質素ですが当時の子供たちは大喜びしたそうです。

東京での給食のはじまりは大正6年1917年佐伯博士の研究による栄養食を東京都中央区銀座の泰明小学校で試みたことが始まりです。
その後昭和7年1932年不況による欠食児童を救うために学校給食臨時施設法が公布された。
戦時中は給食が出せる状況ではなく昭和19年1944年学童疎開実施により学校給食は一時的に中止されました。

  だからといってみんながみんな完璧にお弁当を持ってこれるわけではありません。
飢えとの戦いです。





戦後の給食はどうなった??

まず先に言います。
復活しました。
今まで食べてきたので復活したのはわかりますよね??
ではいつ復活したのでしょうか。
戦争が終わったのが1945年、給食が復活したのは1946年です。
1946年昭和21年、GHQからの勧告を受け12月24日のクリスマスイブに千代田区の永田町小学校に給食物資の贈呈式があったことに合わせて給食が再開されました。
といっても給食を実施できる環境が整っているわけではないのでできる学校からやっていきました。
4年後のの1950年昭和25年には東京23区の560校で実施されました。

パン給食のスタートです。
こうして公立小中学校の給食制度がスタートしました。
その後米給食の開始、麺の登場などメニューの種類も豊富になりました。




脱脂粉乳を中心に給食の定番メニューは??

給食の定番メニューといえば
脱脂粉乳
ご存じでしょうか。
生乳や牛乳または特別牛乳の乳脂肪分を除去したものからほとんどすべての水分を除去し粉末状にしたもの。
はっきりいって、まずいです。
それでも当時としては貴重な栄養源、ですが不味いです。
1950年代には牛乳に代わり姿を消してしまいました。


ソフト麺
定番中の定番です。こちらは平成の今でも給食に登場しています。
ラーメンにもなるしパスタにもなるしうどんにもなる??のかな??
筆者は好きです。箸の先っちょで袋をパスンッと破って食べます!!\



カレー
もうベストオブ給食ではないでしょうか。
どの世代にも人気です。
学校の給食のカレーって独特の甘口感がありますよね。でも10歳越えた舌が拒否するような甘さではない。これがいいところなんです。学校給食をモチーフにしたカレールーも発売されていますよ!!



 給食に歴史あり!!
なつかしの給食、また食べてみたいものですね!!



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